-------------------------------------------------- 『egg』 ◆製作者:小林漠 -------------------------------------------------- 私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したにすぎない。何故それがそんなに困難だったのか。 ――『デミアン』著:ヘルマン・ヘッセ 気が付くと私は駅にいた。 そう、間違いなく、ここは駅。 【名無しの子】 「…………」 ここは、世界の果てだった。 線路の向こう側に見える世界は、限りなく広がる大地。 どこまでもどこまでも広がる、新緑の草原。 その草原の境界線には、青白い空が当然のようにある。 照りつける太陽を浮かべた空は、雲一つない。 緑を青、それと太陽。 それだけが私の眼窩に広がっている。 【名無しの子】 「…………」 駅。 どこまでも、ずっとずっと、尽きることなく、止まることなく、線路が続いている。 永遠に続く線路は、大地と空の境界線上で途切れているように見える。 しかし、線路は途切れることなく、続いている。 世界の最果てを超えた、最果ての世界へと続く線路。 そんな永遠に、私はひっそりと想いを馳せる。 果たしてその想いとは。 期待なのか。 それとも。 【名無しの子】 「恐怖なのか」 駅は無人だった。 私を除いて、だ。 誰もいない。 私しかいない。 人の気配がない。 改札口は電気が通っていないのか、うんともすんとも言わないただのジャンク品だ。 もちろん時刻表も動いていない。 ただそこに無を表示するだけだ。 ホームのタイルも所々崩れていて、よそ見をすると足元を取られそうである。 備え付けのおしゃれなベンチも風化して、木材が剥がれていたり、黒ずんでいたりする。 私はそんなベンチに腰をかけた。 脚部の鉄が錆びてギシギシと音を立てた。 【男の子】 「こんにちは」 突然、隣から声が生まれる。 まるで、最初からそこにいたかのように。 【名無しの子】 「こんにちは」 【名無しの子】 「ところで、聞きたいことがあるんだけど」 【名無しの子】 「ここは――どこ?」 ここ。 世界の最果ての駅。 どこまでも続く線路。 広大な草原、無限な空。 眩しすぎるくらいの太陽。 そんな照りつける太陽、ベンチに座る私たちに影を生み落とす。 【男の子】 「その質問は実に難しい」 【男の子】 「ここはどこ? と尋ねられれば――」 【男の子】 「ここは駅だと答えることが出来る」 【男の子】 「では、どうしてここがあるのか――」 【男の子】 「どうしてここが存在するのか――」 【男の子】 「そう尋ねられたのであれば、僕はこう答えよう」 【男の子】 「『鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。』」 【男の子】 「『卵は世界だ。』」 【男の子】 「『生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊し なければならない。』」 【男の子】 「『鳥は神に向かって飛ぶ。』」 【男の子】 「『神の名はアプラクサスという』」 アプラクサス。 神の名前。 一体それは、なんなのだろうか。 【男の子】 「そんなにアプラクサスの意味が重要かい?」 【名無しの子】 「え?」 【男の子】 「今の君はまだそれを知る必要がない」 【男の子】 「欲すれば――世界を破壊させれば、嫌でもアプラクサスに向かって飛ばなければならないんだからね」 【男の子】 「いや――」 【男の子】 「君は、忘れてるだけなのかもしれない」 【男の子】 「だから、ここに来た。ここに来なければなかった」 【男の子】 「そういうことなのかもしれない」 【名無しの子】 「どういうことなの?」 【男の子】 「『雲を見つめたまえ。』」 【男の子】 「『予感がやってきて、君の魂の中の声が語り始めたら、それにまかせきるがいい。』 」 【男の子】 「僕に聞くのではなく、自分自身に聞くんだ」 【名無しの子】 「…………」 【男の子】 「さあ、分かったかい?」 【男の子】 「どうして君がここに来たのか――」 【男の子】 「何しに君がここに来たのか――」 私は、小さく頷いた。 【男の子】 「じゃあ、これから君はどうすればいいか、分かるね?」 【名無しの子】 「でも、私……」 【男の子】 「『生まれることは非常に困難です。』」 【男の子】 「『鳥が卵から出るのにほねをおることはご承知でしょう。』」 【男の子】 「『ふりかえってたずねてごらんなさい、』」 【男の子】 「『自分の道はどれほど困難だったのか、』」 【男の子】 「『ただ困難ばかりだったのか、』」 【男の子】 「『同時に美しくはなかったのか、』」 【男の子】 「『自分はより美しい、よりらくな道を知っていたのだろうか、と』」 【名無しの子】 「私には、分からない」 【名無しの子】 「困難だったのか、美しくなかったのか」 【名無しの子】 「私には、そんなことを考える余裕すら、なかった」 【男の子】 「なら……」 【男の子】 「僕から最後のアドバイスをしよう」 【名無しの子】 「……?」 【男の子】 「『人は自分の夢を見出さなければなりません。』  『そうすれば道は容易になります。』  『でも、たえず続く夢というものはありません。』  『どんな夢でも、新しいい夢に代わられます。』  『どんな夢でも、固執しようとしてはなりません。』」 【男の子】 「さあ、もう行くんだ」 【男の子】 「君はこんなところで立ち止まっている場合じゃない」 【男の子】 「夢を求めて、アプラクサスへと旅立つんだ」 すると。 突如、駅の口内に音が生まれる。 列車が、ホームへと到着しようとする音だ。 一定のリズムを刻んだ警告音が、静寂の世界を満たしていく。 そして―― ゆっくりと、大きな音を立てて、列車がホームへと入ってくる。 金属と金属が擦れる音を残響させ、列車は止まった。 【男の子】 「さあ、行くんだ」 男の子はベンチから立ち上がり、私へと手を伸ばした。 【名無しの子】 「…………」 私はそれを―― 【名無しの子】 「いいえ」 拒否した。 【名無しの子】 「私は、この列車には乗らない」 【名無しの子】 「いえ――乗れない……」 【男の子】 「…………」 全てを悟ったかのような、含みのある顔が、私を見つめた。 私はそっと立ち上がって、とあるものを視界に入れる。 それは、線路だ。 【名無しの子】 「私は、歩く」 【名無しの子】 「これからの道、これまでの道」 【名無しの子】 「全てを噛みしめて、理解するために、歩く」 【男の子】 「そうかい」 【男の子】 「君がそう決めたのなら」 【男の子】 「気をつけて」 【名無しの子】 「ええ」 【名無しの子】 「さよなら」 私はホームから線路へと飛び降りた。 列車は、いつの間にか消えていた。 【名無しの子】 「…………」 線路は、どこまでもどこまでも続いていた。 私は、振り返ることなく、線路の上を歩き始めた。 【???】 『どのくらい自分の夢が続くべきものか私は知りません』 ふと、声が聞こえた。 風の調べに乗って、私の耳にささやくかのように、声が聞こえる。 【???】 『永久であってくれればと願っています。』 零れ落ちたかのような、ささやかな願いが、私の胸の中に広がっていった。 【名無しの子】 「『その夢があなたの運命であるあいだは、あなたは夢に忠実であらねばなりません』」 そして私は生まれるだろう。 アプラクサスの中へ、と。 でも、きっと今度は、大丈夫。 END